例えばこんな【6】
階段の向こうには初夏の朝の陽光が広がっていた。
青梅街道沿いの駅の昇降口を出たら、通りを渡らずに、180度折り返し、蚕糸試験場跡地や学校の塀沿いに進む。
やがてその塀が切れるところで一度左にクランクして、今度は住宅街の中を進む。
突き当たりが大和湯といって、僕のいきつけの銭湯。
その少し手前を右斜めに入り、坂を少し上がったところが小さな四つ辻になっていて、そこを越えた袋小路の手前左手にあるのが埴生荘だ。
東高円寺の駅から、ゆっくり歩いて15分ほどのところにある。
僕たちは段々無口になっていた。
並んで歩きながら、他愛のない世間話と、アパートまでの道順の説明をすると、他に切り出す話題が見つからなかった。
いや、ホントはいくらでもある。
山崎や天野のことだって聞いてみたい。
ただ、いきなりそうした核心の部分に触れたものかどうか、戸惑っていたんだ。
そういうぎこちなさは、当然彼女にだって伝播する。
埴生荘は2階建てのアパートで、2階は、2部屋で共有するトイレが、階段の突き当たりにあって、その両サイドにそれぞれの部屋のドアが配されているという、少し変わった造りになっている。
僕の部屋は、埴生荘の入り口から数えて3番目にある。
「埴生荘」という看板がかかったブロック塀の門を抜けて、建物を右に迂回すると、共同の水場があって、そこを過ぎたところに、2階へ上がるドアがある。
部屋に入って、窓を開け放つと、爽やかな風が入ってくる。
ようやく落ち着くことの出来た僕たちは、お互いにどこかホッとしている。
部屋をグルリと見回しながら、
「男の人の部屋ってこんな感じなんだ」
「男の部屋に入るのは初めて?」
「うん」
「そうか」
ステレオから流れるFM東京の番組をBGMに、アイスコーヒーを飲み干すと、僕は折り畳んだふとんを枕に、横になった。
いつもは押入れに入れるのを、その日はたまたま折り畳んだままで出掛けてしまっていたんだ。
心地よい疲労感が全身を包み込んでいる。
そりゃそうだ。
徹夜で飲んだ挙げ句に、結構歩いた。
それは、彼女だって同じ事。
「少し眠ろうか」
「だって」
「横になってごらん、気持ちいいから」
「うん」
彼女も、同じようにふとんを枕にして、僕の隣に横になる。
でも、お互いに眠くならない。
狭い四畳半の部屋に二人が並んで寝転がる訳だから、少し手を伸ばせば、彼女の手に触れる。
少し、モールス信号を送ってみようか。
そっと、彼女の手に、僕の手を重ねてみた。
特に嫌がる風はない。
僕の心拍数が上がってきた。
『ここで躊躇するのは野暮だろ』と、僕の中の悪魔が囁く。
ゆっくりと上半身を起こし、彼女の上に重なり、そっと唇を合わせてみる。
軽く触れるか触れない程度の優しいkissになった。
そして、その先へ進もうとした、その時、
「やめて!」と跳ね返された。
そんなこと言われても、もう僕の中のスイッチは入ってしまってる。
その先は、延々と堂々巡りの消耗戦となった。
僕は、無理矢理に事を進めることの決して出来ないタイプなんだ。
一進一退の攻防戦の中で交わした言葉の数々が、僕の中の彼女に対する誤解をほどいていった。
山崎も天野も、いい人だから断り切れずに一度はデートにつきあったが、それ以上進む気にはなれなかったので、それから後はハッキリ断ったこと。
実は、専務にしつこく誘われてて、それを断り続けるのが嫌で、僕と同じ日にアルバイトを辞めたこと。
そっと辞めたかったので、専務以外には、そのことを誰にも話してないこと。
高校も白百合女子学園だったので、これまで男性とつきあったことがないこと。
彼女で5代目の老舗の長女なので、母親の躾が厳しく、決して結婚前にふしだらな真似はするなと教わったこと。
ただ、その反発心で、デート程度は、これまで複数の男とあったこと。
そして、最後は、「婚約者がいるから、絶対ダメ」だと言う。
「じゃあ、なんで俺の部屋に来たの?」
「なんとなく、そのまま別れづらかったから」
「てことは、俺に好意を持ってるってこと?」
「それは判らない」
「なんで判らないの?」
「だって、判らないから、判らないとしか言いようがないもん。」
僕はもうたまらなくなって抱きしめる。
最初は激しく抵抗していた彼女も、段々とその抗う力が弱くなってくる。
そりゃそうだ。
だって、僕たちは、朝から夕方まで延々とその攻防戦を繰り広げていたのだから。
お互いに、魂魄尽き果て、意識朦朧となりかかっていた。
そこまで行くと、もうお互いに遠慮がなくなってきて、それまでの他人行儀な溝が埋まっていくのが判る。
「俺は圭子が好きだから、抱きたいだけだ。どこが悪い。」
「そんなこと言ったって、私、初めてなんだから。」
「嘘言え」
「嘘じゃないもん」
ここまで来ると、お互いに笑いが込み上げてくる。
結局抱き合ってクスクス笑い合う始末。
お互いに神経が麻痺してたのかも知れない。
そこから先は至極自然にことが運んだ。
「初めて」と言った彼女の言葉は嘘ではなかった。
そして、「婚約者がいる」と言った言葉は嘘だった。
咄嗟に口をついて出た方便だったらしい。
「なあ、俺、好きな子には呼び捨てにしてもらいたいと、ずっと思ってたんだ。だから、これからシュンと呼んでくれないか。」
「いいよ、じゃあ、私のことはケイって呼んで。」
これが、僕たちの初めての意思表示の交換であって、その瞬間から蜜月が始まった。
「ケイ、お腹すいたな、どこかへ食べに出ようか」
「うん、シュンの好きなところへ連れてって」
「よし、じゃあ、吉祥寺のサムタイムにしようか。ジャズ喫茶なんだけど、夜は飲めるんだ」
「うん、行きたい」
出会って15時間。
ようやく僕たちは、恋人同士になった。
そして、心底からお互いを愛おしいと思える、優しいkissを交わした。
朝来た道を引き返す。
今は、あのときの緊張感や疎外感が嘘のようだ。
僕は全身でケイが好きだと感じていたし、ケイはそれをそっくりそのまま受け止めてくれた。
このときからだ。
一緒に歩くときは、必ず僕の腕にケイの腕が絡まってなければしっくりこないという癖が始まったのは。
会社帰りの人の流れに逆流するように僕たち二人はうっとりと歩いていった・・・
例えばこんな【7】
僕は、吉祥寺に住みたかったんだ。
高校時代、毎週楽しみに観ていた「俺たちの旅」というドラマの舞台が、井の頭公園だった。
だから、上京して二番目(一番目は新宿)に行ったのがそこ。
TVで観たのと同じ風景に感動したっけ。
吉祥寺が無理なら、井の頭線の反対側の終点である下北沢。
ここもなんとなく好きな街で、かなり不動産屋を回った。
結局、そのどちらも、僕の経済力では届かない家賃のところばかりだったから諦めたんだけど。
吉祥寺にはジャズ喫茶も多かった。
井の頭公園とは反対サイドの北口を出たところに点在してて、僕がよく通ってたのが、【アウトバック】。


地下にある狭っくるしいスペースに、どでかいスピーカーがある。
僕はいつもその前のテーブルに陣取って、薄暗い照明の下で、大音響に耳をジンジンさせながら、大江健三郎やスタインベックの小説を読んだ。
どだい、読書には向いてない環境、最悪とさえ言える。
でも、何故かそうすることが一種ステータスだった。
また、そんな奴がごろごろしてたのが、ジャズ喫茶というところだった。
でも、僕の場合は、麻疹のようなものだったようで、今ではとんと通わなくなってしまった。
そんな僕でも、時々は覗きたくなるのが、サムタイムだった。
一番のお気に入りといってもいい。
だから、ケイと最初に行く店はそこでなければならないと思ったんだ。
東高円寺から、新宿行きとは反対向きに乗る。
終点の荻窪で中央線に乗り換えて、二つ目の駅が吉祥寺。
その移動中、僕たちは、ほとんど抱き合うようにして電車の中に立っていた。
朝とは大違い。
僕たちは、多分、普通のカップルがとる行動の10倍くらいのスピードで親密になっていった。
【残り時間】を考えた神様がそうさせたのかも知れない。
北口ロータリーを越えて、サンロードに入る。
二本目の筋を左に折れるとすぐそこ、右側に、僕好みのファサードが広がる。
狭い入り口だが、まるで、手を広げて僕たちを歓待してくれてるかのようだ。


地下への階段を降りる。
この短い行程が、別世界への露払いとなる。
ドアを開けると、そこはアーリーアメリカンの空間。
やや暗めの照明が、年季の入った椅子やテーブルを映し出している。
踊り場となった出入り口から、さらに階段を降ると、狭いステージがあって、そこが店の中心となっている。
その奥は中二階になっていて、テーブル席が広がる。
壁は煉瓦造り。
この立体的なデザインや、妥協のないディテールに僕はぐっとくる。


僕たちは二人がけのテーブルに陣取った。
「へえ、凄い。こんなお店があるんだね」
「うん、俺の今一等好きな店」
偉そうに言っても、ここを教えてくれたのは、学友で、まだ自分のキープボトルもない僕は、今夜は初めてキープしちゃおうと決めていた。
いつもは、サントリーの白札かニッカのブラック50なんだけど、今宵はカッコつけてカティーサークをオーダー。

僕のような貧乏学生には贅沢な代物なんだけど、スコッチの中でも異色な、軽めでまろやかなその味わいは、ケイにぴったりだと思ったんだ。
なんで味を知ってるかって?
それは、真野響子のカレンダーにつられて買った学友のご相伴に預かるラッキーがあったから。
その学友だって、普段はサントリーレッドかトリスなんだけど、散在させる魅力が真野響子にはあった。
勿論、僕もファンの1人だったが、今の僕にはケイしか目に入らない。
心地よいJAZZのシャワーを浴びながら、しどけなく酔っていく。
もう僕たちは、何年もつきあっている恋人同士のようだ。
実際は、まだ、出会ってから24時間も経ってないのに。
僕たちはだんだんと、離れたくなくなっていった。
このままずっと一緒にいたい。
その気持ちは僕の中でどんどん膨らんでいったし、ケイもそうだったに違いない。
こうして、僕たちの夜は更けていった・・・

例えばこんな【8】
楽しい時間は、あっという間に過ぎる。
そして、どんどん終電の時刻が迫ってくる。
僕は少なからず焦っていた。
このまま別れたら、もう次はないんじゃないか?
ケイは、変な男のペースに巻き込まれておかしなことになったなんて、後悔するんじゃないか?
そもそも、夏の夜の夢のような出来事なんだから、幻のようなもの?
事実、当の本人である僕自身が、まだ夢の中を彷徨ってる気分なんだから。
でも、いずれは帰らなきゃならないし、ずっとこのまま一緒にいる訳にはいかない。
う~ん、どうすりゃいいんだ。
ええい、ままよ。
サムタイムを出て、吉祥寺駅に向かう途中で、僕はこう切り出した。
「送るよ」
「でも、遠回りになるから」
「いいんだ、だって、元々遠回りの続きなんだから」
「ホントだ。私、送ってもらう途中だったんだ」
ケイはそう言うと、如何にも楽しそうに笑った。
中央線で新宿まで出て、山手線に乗り換えて一つ目、新大久保駅で降りる。
この区間は日本一距離が短いらしい。
「ありがとう。お陰でとても楽しかった。もう、すぐだから、今日はここで・・・」
ケイの言葉を遮るように僕は言った。
「ケイの部屋が見たい」
「え?」
「このまま別れたくない」
「でも、部屋、散らかってるし・・・」
「いいよ、一緒に片づけてやるよ」
「それは恥ずかしい」
「じゃあ、外で待ってる」
「・・・」
「・・・」
深夜の新大久保の駅前で、僕たちの延長戦開始だ。
「わかった。じゃあ、そこの喫茶店で待ってて。大急ぎで片づけてくるから」
と、意を決したように告げるケイ。
「うん、慌てなくていいからな、ゆっくり待ってるから」
と、一安心の僕。
僕たちはその喫茶店の前で、一旦別れる。
終夜営業のその喫茶店は、まるでそれのみがウリだとでもいわんばかりで、オーダーを取りにきたウェイターにも覇気がない。
まあ、いいや、どうせ僕だって、珈琲を飲みたくて来た訳じゃない。
通りがよく見渡せる窓際の席に座った僕は、取り敢えず新聞なんぞを読むフリをしてみるが、全然記事が頭に入ってこない。
そうなんだ、僕の頭の中は、もうケイのことでいっぱいで、他のことは入り込む余地がないくらいなんだ。
このままケイが来なかったらどうしよう。
アパートがどこにあるか知らないんだから、僕はそこから先へは一歩も進めない。
考えてみれば、ケイは、律儀に迎えにくる必要はない。
このままうっちゃっとけば、僕はトボトボ帰るだろう。
それで、後腐れ無く縁切りが出来る。
僕はこんなにネガティブな男だったんだろうか?
自分で自分が嫌になるくらい、マイナスイメージを思い浮かべてしまう。
恋は人をネガティブにする。
いや、恋は人の本質をレリーフする。
30分が過ぎた。
もう終電も終わっただろう。
ま、いいや、来なけりゃ来ないで、始発の時刻までここで雑誌でも読んで帰ろう。
ここまででも充分だ。
楽しかったし、滅多に出来ないような経験をさせてもらった。
感謝しこそすれ、恨むなんてことは絶対にやめよう。
『おお、ポジティブ、やるじゃん、それでこそオレ』
なんて、殊勝なことを考えつつ、腹の中では、まだ来ない、なんで?なんて、ヤキモキしている。
小さな男だ、僕は。
切ない恋は人を小心者にさせる。
・・・1時間が経った。
終電も終わり、通行人もまばらになった通りをずっと眺めていた。
諦めたり、励ましたり、心の中で葛藤しながら。
相も変わらず、ボーっと眺め続けていた。
そこへ、ケイがふいに現れた!!
正しく、僕の網膜にフレームインしたんだ。
白いポロシャツに、赤いタータンチェックのタイトなパンツ。
着替えたんだ、とてもよく似合ってる。
ケイはガラス窓越しに、少し店内を探して、すぐに僕を見つけると、ニッコリ微笑んで手を振った。
なんて可愛いんだ。
僕は、これまでこれほど可愛い仕草の女性を見たことがない。
ケイの周りが、キラキラ輝いて見えた。
このときの瞬間の光景を、僕は恐らく死ぬまで忘れないだろう。
まるで一葉の写真のごとく。
この先、老いさらばえて、恋なんて遠い昔のことになっても、今宵のこのシーンだけは決して忘れない。
ハッキリ、そう意識した。
僕は、急いで珈琲の代金を払って店を出る。
現金なもので、さっきのウェイターがいい奴に見えた。
「ごめんね、待たせちゃって」
「いいんだ、新聞を読んでたから」
ケイ、ゴメン。
もう絶対に君を疑わないから。
ケイの住んでるアパートは、そこから数百メートル行ったところを右に折れて、百メートルくらい入った左手にあった。
そのまま、その道をまっすぐ20分ほど歩くと、ウィザードだと言う。
なるほど、随分遠回りして帰って来た訳だ。
そのアパートは、出入り口が一つで、部屋が複数あって、便所が共同になっている。
ケイの部屋は、階段を上がった、二階の取っつきにある。
引き戸になっていて、入るとすぐに狭い台所がある。
その奥が四畳半の部屋で、正面が窓になっている。
お世辞にも綺麗なアパートとは言えないが、部屋の中は、女性らしく快適に整理されている。
結局、僕たちはこの日から、ここと、僕の部屋を頻繁に行き来する関係になる。
この夜は、お互いにかなり疲れていた。
だって、出会ってからようやく24時間が経とうとしているが、その間、二人とも一睡もしてないのだから。
ケイが、僕を自分の部屋に入れてくれたことで、僕たちはもう完全に意志の疎通が出来ていた。
いや、ケイはとっくにそのつもりだったのに、僕だけがそれを疑ったのかも知れない。
なにはともあれ、僕たちは、その夜、ひとつの布団で一緒に眠った。
確かに僕の隣に、ケイが息づいている。
その実感が何よりの充足感を僕に与えてくれた。
こんなにも好きな女性が今、隣で、寄り添うように眠っている。
これからはずっと一緒だ。
そんな暗黙の了解のようなものをお互いが感じていたんだと思う。
事実、それからというもの、僕たちは、笑えるくらいお互いを求め合った。
なんでこんなに好きになったんだろうって、不思議に思えるくらい。
愛されている自信も出来た。
愛している確信もある。
僕たちの生活には、二人が逢わない日があるなんて信じられなかった。
馬鹿みたいに寄り添っていた。
そんな、めくるめく毎日が続いた。
あの日までは・・・
