宝島のチュー太郎

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空白を満たしなさい


 深い水底からスーっと浮き上がって水面に漂うように生き返った主人公。
その3年前に勤務先のビルの屋上から転落死した彼は、自分が自殺したということが信じられなかった。
だから、殺されたんだと最初は考えていたが、どうやら自殺したんだということを認めざるを得なくなる。

そんなことある?
私は未だかつて「死にたい」と思ったことは一度もない。
そして、「生きることが辛い」と感じたこともない。

そういう意味では、主人公と同じだ。
でも、主人公は自殺する。
自分でも気づかない部分で追い込まれ疲弊し、何もかもが嫌になって咄嗟に飛び降りた。
そういうこと。
てことは、私にだってその可能性はある?

その上で著者は問う。
「果たして、自死はいけないことなのだろうか?」と。

自分の命を自分で決めることは悪いことなのか?
当然、その周囲に与える影響は深く根を張る。

ただ、本人自身にとってはどうか?

それについてはこう書いてある。
以下抜粋。

「苦悩を否定された人間は、悲劇的な方法で、それを証明するように追い詰められます。多くの場合、我々は、決して否定できない深刻な事態が生じてから、初めて彼の苦悩を知るのです」単行本p292

どうして救い出してやれなかったのか?
それは無理に決まってる。
何故なら、本人の苦悩が理解出来てないのだから。
そして、それが起きて初めて、驚天動地の奈落へと突き落とされるのだから。
こうした遺族や友人の歯痒さ、情けなさを見事に表現した文章だ。



 一方、分人という考え方について。
これは、著者独自が創作活動の過程で哲学し、見出した考え方で、こういうもの。

以下引用

『私とは何か---「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書)---この度、刊行した本書の副題に、おや?と思った方もいるだろう。「分人」とは、何なのか?

 一言で言うなら、人間を見る際の「個人」よりも更に小さな単位である。

 私たちは、日常生活の中で、当たり前のように多種多様な自分を生きている。勿論、妄想的に、勝手に分裂するのではない。常に、相手次第、場所次第である。

 職場の上司といる時と、気の置けない友達といる時とでは、決して同じ人間ではない。

 当たり前の話だ。しかし、環境によって容易に変化する自分というイメージが、個性的に、主体的に生きる自分という固定観念と矛盾を来すためか、私たちは、この事実をなぜか軽んじ、否定しようとする。

「もちろん、色んな顔は持っている。けど、それはそれ。表面的なことであって、〈本当の自分〉は、ちゃんとある。」

 そして、その肝心の〈本当の自分〉が何なのか分からないことに思い悩み、苦しんでいる。実のところ、私自身がずっとそうだった。

 流されやすい、主体性に欠ける、自分を持ってない、ブレる、・・・と、私たちの社会は、一貫した個性を持たない人間に、とかく批判的である。叩いても蹴っても、頑として己を貫き通す人間。それが通念的な英雄像だ。そのクセ、本当にそんな人が身近にいれば、誰もが迷惑がるに決まっている。アイツは、コミュニケーション能力がないのか?と。

 あるいは、一緒に楽しく喋っている相手が、「でも、これは単なる仮面に過ぎませんから。僕の素顔はこうじゃないんですよ。」などと言い出すなら、勝手にしろ、という気分になる。

 どうしてこんなことになっているのか?



以上、引用



 こう考えるとしんどそうだ。
個人、即ち自我、そして他人(相手)即ち彼我の区別、これが苦悶の始まりなんじゃなかろうか?


 私はここ数年、こう考えている。

自我は無い。
従って個は無い。
即ち彼も我も無い。

あのだらしなくすかんたらしい奴も、自分の一部なのだと。
あのクズも、自分の中の一部なのだと。

そう解釈する分人なら、納得がゆく。


 「死ねば無に帰る」と書いてある。
確かにそうなんだけど、私の解釈は彼が主張するような、自然科学的な解釈ではなく、空(色即是空のそれ)に戻るだけのことだと考えている。
だから、仮に気の遠くなるような先で太陽が爆発して地球が無くなろうと、そこは「無」ではなく「空」があるんだと考えている。
だって、46億年前に地球が誕生した以前の状態に戻るだけのことなんだろ?
ほっとけば、また長大な時を経て、何かが発生するさ。


 勿論、死ねば、今の思考や記憶は無くなるのだから、肉体が滅べば意識も無くなるという現象は同じこと。
なので、人生は一回こっきり、という考え方はそれで間違ってないし、その通りだろう。

死後の世界だって無い。
勿の論、地獄も天国も無い。
だって、自我が無いのだから当たり前だのクラッカー。

従って、私に宗教は要らない。
ましてや、天国へ行けるのだから自爆するのも怖くないというような中東の一部の人達の宗教観は似非だと考えている。


 でも、くどい様だが、我々が理科で学んだようなそれではない。
「個」は存在しないが、完全な「無」になる訳ではない。
「個」だ「無」だという感覚そのものが、我々の現世における、即ち三次元世界の妄想だ。
人類が未だに宇宙の果てを説明(理解)出来ないのは、そこに根本的な錯誤があるからなんじゃなかろうか!?

じゃあ、何が残る?
それは、「空」とも「宇宙」とも「大いなる存在」とも、好きなように呼べばいい。

そう考えている。


 であるからして、著者の死生観は相容れないな。

ただ、締めくくりの数行は流石の筆致だ。
言葉だけで、見事にビジュアル化している。

ネタバレを避けて、敢えてその文章は転載しない・・・









平野 啓一郎
講談社