ショッパーズプラザ南海
'71 雨の御堂筋/欧陽菲著
この歌が流行ったのは、私が中学2年のときだったと記憶している。
youtube遊びをしていてたまたま行き着いたので、今日はその頃の思い出を書こうと思い立つ。
当地新居浜には、古くから大丸デパートがあった。
こんな田舎に不釣合いなようだが、そこはやはり住友城下町のお陰なのだろう。
まあ、リーガロイヤルホテルもそのようなものだ。
大丸は我々庶民の一種ステータスだった。
小学生の頃、珠算の検定が定期的に西高の家政科であった(今はもう無くなって、テニスコートになっている)。
進級するためにはそれに合格しなければならないのである。
そのときは、垣生の「山下珠算塾」に集合して、みんなで一緒に試験場まで行き、帰りは自由行動になる。
(そういえば、山下先生は褌だった。生徒の前で着替えるものだからしっかりと見た。)
すると、大抵友達同士で大丸に行って、大食堂で食事をして帰るのが、楽しみの一つだった。
私は大抵ホットケーキ。
今で言うところのパンケーキかな。
小さめのものが2枚重ねになっていて、その上にバターが乗っかってて、じんわりと溶け始めている。
皿の脇にはミルクピッチャーに入った蜂蜜とごく小さめのナイフとフォークが添えられる。
もうそれだけで余所行き感満載。
思えば当時の子供たちの文化がそこに漂っていた。
そして、それは我々子供たちにとって唯一無二の場所だったのである。
それが、中学2年のときに、こちらから言えば、大丸よりもっと手前にもうひとつ出来たのである。
確かそれまでは「南海デパート」とかいう名前だったと思うが、それは名ばかりで、大丸とは比較にならないものだった。
それが、増床をして、テナントも入れ、一気にお洒落に変身してしまったのだ。
名前も「ショッパーズプラザ南海」とかいう風に変わったと思う。
ここがもうひとつの文化になった。
黒猫ベーカリーで買ったバケット。
生まれて初めての食感に感動した。
当時は「フランスパン」と呼ばれていたような。
屋上のゲームセンターではスマートボールを縦型に置き換えたような台があって、真ん中のスリットに玉を全部集めることが出来ると、ソフトクリームをくれた。
これが、さあ、3回に1回くらいの割合で成功するものだから、行けば必ず成功するまでやったものだ。
一番よく利用したのが、ファンシーグッズコーナーだった。
ここは田舎の中学生にとってはキラキラ輝く商品の宝庫だった。
寸胴で縦長のゴミ入れ。
アルミのような素材で出来ていて、デザインは煙草のパッケージで各種揃っていた。
そのうちの1個が今でも宝島のカウンターの下に置いてある。
いくつか買った中で、これだけが手元に残った。
デザインは「プロムナード」のそれ。
この煙草自体は今どうなっているのか知らないが。
何故かパネル。
当時は自分の部屋にパネルを飾りたがった。
そう、ポスターではなくパネル。
ジャンクロード・キリーのスキー姿、エッジを利かせてフラッグを回る瞬間の写真。
スティーブ・マックィーンのレース服姿。
これらは今でも事務室に飾ってある。
ズック地?あ、いや、キャンパス地の方がピンとくるか、そのウォールラック。
ポケットがいっぱいついた壁掛けだ。
これが殊のほか便利だったので、結婚披露宴の引き出物にしようと、それを縫製会社に見本として持ってって、同じものを作ってもらった。
M実被服さんだった。
今でこそ先輩として懇意にさせてもらっているが、当時は丸っきりの飛び込みだった。
婚約者である細君を伴って。
これと同じものを作れるか?
という交渉だ。
縫製だけでなく、鋲や金属製のフックもそのままコピーするのはもしかすると難しいんじゃないかと思ったが、
「難しいけどなんとかしよう」と言ってくれた。
そして、本当に立派なものを作ってもらった。
私が書いたロゴもプリントしてもらって、さて、100と数十の数だったかと思う。
今思えばよく対応してもらったものだ。
ただ、見本として持っていったオリジナルは、バラして型紙を作るために使ってもらったので、今は手元に無い。
それは事前に承知の上でお願いしたことだから、まあ、仕方ない。
Mさんは今でも酔えばときどきこういう。
「俺はあのとき独身で、なんでこんなチンケな男にこんな別嬪さんがと思うてはがいかったものよ」と。
手前味噌だが、それは確かに当時の細君は飛び切りの美人だった。
しかし、チンケて・・・
閑話休題
ハチのムサシは死んだのさ/平田隆夫とセルスターズ.wmv
どでかいオレンジ色のローソクも買った。
しかしこれは、でかすぎて芯が下まで燃えていくと行灯のような感じになって、それはそれで風情があったのだが、蝋が粗悪品だったのか、蝋で火が消えてしまうのだった。
何度か溶けた蝋を出しては火を点け出しては点けを繰り返してみたが、最後は全部溶かしてオブジェを作った。
「ON AIR」という赤地に白抜きのボードが入った、なんて言えばいいのか、告知灯?もそこで買った。
中に豆電球が入っていて、そこから出たコードの途中に回すタイプのスイッチがついていて、壁に掛けたそれを気分で点灯させるというような代物だった。
これは、今でもチュー太郎のトイレの在室告知灯として立派に働いてくれている。
28年前にチュー太郎を作ったとき、私なりに盛り込んだ様々な仕掛けの中の一つで、トイレの手元スイッチと連動するように電気工事の人に頼んで壁の裏に回路を作ってもらったのである。
え~と、ちょっと話が瑣末なことに及び過ぎて、「ショッパーズプラザ南海」の印象が薄くなった感が・・・
要するに、そこは当時の私にとってお洒落で文化的な存在だったということだ。
後にダイエーとなり、マルナカとなった今、文化の影すらも無くなってしまった。
その前に「大丸デパート」も無くなってしまった。
それが今や「イオン」ですか。
確かに、文化度やお洒落度という点ではレベルが違う。
規模も全然。
でも、40年前は凄かったんだ。
という話なのである・・・
