三河屋
けふのBGM
The Carol Of The Bells -George Winston
定休日である昨日は、昼間ゆったりと過ごし、夕方になってから近所の飲み友達を招いて庭で鍋をした。
鍋なら家の中でやれば良さそうなものだが、なんとなく屋外でやることに酔狂を感じる質(たち)に出来ているのだから仕方ない。
実は、先週に続き、2週連続の酔狂である。
但し、晩秋で済んだ先週に比べると、昨晩は一気に真冬の様相を呈していた(今日のニュースでは、寒波が襲来したとか、木枯らし1号とか)。
普通の大人ならこの状況で屋外の宴会は避けるところだろうが、そこはそれ、亭主も客人も酔狂ときている。
ダウンジャケットを着込んでの宴となった。
昨晩は風も強かったので、体感温度はまるで真冬のそれだった。
「今晩できたんじゃけん、これから雨さえふらんかったらいつでもやれるねえ」
などと、訳のわからぬ話で盛り上がるあたりは、もしかすると変人の集まりやも知れぬ。
仮にカセットコンロなら昨晩は屋内に変更しただろう。
何故なら、風で火が消えるから。
それが出来たのは、業務用のガスコンロと、風よけの工夫があったから。
実は今日の話は、「酔狂な宴会」のそれではなく、そこから繋がるその業務用のガスコンロにまつわる話なのである。
勿論、それは酔狂の為に特別に購入したものではなく、元々うちにあったからこうして利用しているのだが、では何故、そんなものがあるのかという話なのである。
確か私が中学生の頃だったと思うから、40年ほど前のことになる。
父が突然「食堂やる」と言い出したのである。
そこで父は、母を知り合いの大衆食堂に連れていって、そこのおばさんに中華そばの作り方を伝授してもらう。
その頃はまだ地域の生活圏内に1軒ずつ程度の「大衆食堂」というものがあって、うどんや中華そば、お好み焼きなんぞがメインメニューだった。
そして、いなり寿司やちょこっとしたおかずがガラスケースに並んでいて、客は勝手にそれを取って食べていた。
因みに私は、小学生の頃、「大衆」を「大塚」と勘違いしていて、
「オロナミンCドリンクの会社はこなんようけ食堂つくっとんや」と思っていた。
そんな笑い話が出来るほど、何故かどこも入り口に「大衆食堂」の暖簾が下がっていたのである。
当時、母の作ってくれる中華そばは、うどんと同じだしの中に中華麺を入れただけのものだから、いわゆる中華そばとはまるっきり違うものだった。
それが、そこで習ってきたものはなんと、あの大衆食堂で出てくる中華そばそのものだったのである。
これには驚いた。
何がって、そんなことを簡単に教えてもらおうと出来る両親の天真爛漫さと、またそれに応えた食堂のおばちゃんの大らかさにである。
それから具体的に準備が始まった。
酒屋の店舗の1/3程度のスペースに別の出入り口を設け、奥に厨房とカウンターを取り付け、お好み焼き用の鉄板の乗ったテーブルを手前に配置。
勿論、什器も松山の「矢野食器」まで出掛けて揃える。
うどん鉢、どでかい寸胴、大きな玉上げ網、そしてガスコンロ。
このガスコンロは埋め込み式のものではなく独立したもので、テレビでラーメン屋さんの特集なんぞがあればよく目にするあのだし取り用の寸胴を乗せたしっかりした作りのそれである。
いもだきに行けば、その小さいものが使われている。
店名は、なんと「三河屋」にすると言う。
それはいかにも都会の酒屋によくある代名詞のような響きがして、当時の私にはピンとこなかったのだが、父に言わせると、「三島の出の河端やから」とのこと。
う~ん、気持ちは分からぬでもないが、ちと安直ではないか?
それでもそのまま事は運び、その屋号を染め抜いた暖簾を作るところまでいって、なぜか頓挫してしまった。
その理由は未だに知らぬままなのだが、いい機会だから健在である母に今度聞いてみよう。
(長文につき、二度目のBGM)
ドヴォルザーク / リベラ - 家路 [Going Home]
そもそも、大体が思いつきで様々な商売に手を出してきた父の尻ぬぐい役はいつも母だった。
我々がまだ三島の村松というところに住んでいた頃、商売も出来そうな土間のある借家で始めたのが太鼓饅頭屋(こちらで言うところの大判焼き屋である)。
まだ3歳~5歳程度だった私は、朧気ながらその光景を覚えている。
当時父は「初勢」という今は無き造り酒屋の番頭をしていて、いわゆるサラリーマンだったから、その店を切り盛りするのは母一人だった。
その後家族は土居に転居する。
土居高を背にして数百メートル入ったところ、今ではなんとかアリーナが近くに出来ている。
その頃のことは過日こんなことを書いている。
土居の家
土居の家その2
土居の家その3
土居の家その4
そこでは、当時の宇摩郡ではそこここにあった養鶏場を始めたのである。
これも母の仕事になる。
青菜をカッターにかけて糠を混ぜてエサを作る作業を覚えている。
そして、当地新居浜に転居して始めたのが「河端酒店」という訳だ。
これもほとんど母と我々子供達の仕事になった。
父は必ずなにか別の仕事をしていたのである。
当地に移ってからの父の仕事は、いつかも書いたアイスクリームの卸売りだった。
自分の感傷用に関連記事を列挙しておく
七分待ち信号多喜浜
宝島その5
アイスクリーム繋がりの昔話
アイスクリーム
閑話休題
そんなこんなで、うちの倉庫にはそれらの道具がずっと眠ったままだった。
それを、庭で酔狂をするために引っ張り出してきて、最近結構重宝に使っているという・・・話なのである。
「三河屋」は幻に終わったが、その息子が「チュー太郎」を始めて28年。
やっぱり親子にはどこか似たところがあるのやも知れない。
最近はそんなことを思う機会が増えてきた。
これも歳を食ったということの顕れなのかも知れぬ。
まあ、それはそれでいい。
こんな具合だから、この先私が息子達に何か言えるとしたら、
「いずれわからい」
くらいのことだろうかと感じている。
こうして世代は引き継がれ、時代は変遷していくのだろう。
必ず「オチ」をつけたがる私の文章は、時にこうした大上段の物言いに着地する・・・
