
今朝の我が家の桜桃。
どんどんみすぼらしくなっていく。
書くことが思いつかない日もある。
日記なら、ありのままを書けばいいのだろうが、それだとただの記録に陥ってしまい、
面白みはないだろう。
そんなときの為に「追憶」というカテゴリーを作ってある。
今日はその続きを書きたいと思う。
今の四国中央市三島、以前の伊予三島で産まれた私は、多分、4歳か5歳から小学校
1年の1学期までをその西隣の土居町で過ごした。
そして、その2学期からそのまた西隣の当地新居浜で暮らすことになるのである。
そんな訳で、私の幼い頃の記憶のほとんどは、その土居にある。
自然の豊かなとてもいいところだった。
庭には、葡萄や橙といった果樹が植わっていて、井戸もあった。
夏はその井戸で西瓜を冷やした。
ダリヤの花が綺麗に咲いていたことを妙に覚えている。
家の裏には小川が流れ、しおからトンボや水すましがいた。
川の脇には竹藪があったし、家の周りの田圃の石垣にはシダの葉や、野いちごが
成っていた。
少し離れた大きな川の土手にはいつも土筆がたくさん生えてきたし、夏は蛍が
たくさん飛んでいた。
クーラーなんて一般家庭では考えられない時代。
多分網戸なんぞもさほど整備されていなかったと思う。
窓や戸を全部開け放って、一つの部屋に蚊帳を張って一家がそこで寝る。
部屋の四隅に釘が打ち付けてあって、そこに蚊帳を支えるリングを引っかけるのが
私の役目だった。
蚊帳の中に入るときにモタモタしていると、蚊が入ると言って怒られたものだ。
時々その蚊帳に蛍が飛んできて、それを眺めながら眠りについたことを覚えている。
田舎に住んでいる割には、父は商売人だったので、当時としては珍しく自家用車を
持っていた。
自家用車といっても、ダイハツミゼットという貨物車である。
当時のそれは、窓がアクリル板のような素材で、巻き上げではなく、列車のそれの
ように、取っ手を持って上下する方式のもので、ハンドルは、バイクのハンドルが
車内にある、というよりも、三輪車に荷台と座席がついたような代物だった。
私はよく丸いハンドルの車がいいと進言したものである。
父はよくそのミゼットに私を乗せて、当時の友人の家に遊びに行った。
その中の一軒に、材木商の家があって、そこには当時としては珍しいテレビがあった。
私はそこで七色仮面を観させてもらうのがとても楽しみだった。
そのお宅のすぐそばにあるのが土居小学校で、私はそこに通った。
どうだろう、通学に30分近くかかったのではないだろうか。
その通学路の途中に土居中学校があるが、私が通っているころに、その建設が
始まった。
土居小学校は、確か、水路の向こうにあって、校舎を抜けたところに運動場が
あったと記憶している。
担任の女先生は、野村先生といって、大事にしてもらったと、後年母が言っていた。
父が新居浜で商売をするということから、引っ越すことが決まって、たった1学期のみ
の在籍だった。
終業式が終わってから、野村先生がクレヨンを私にくれたことを覚えている。
どんな言葉をかけてもらったか、どんな顔をしていたかはもう追憶の彼方だが、
なんとなく別れを惜しんでもらったような記憶はある。
こんな風にして私の土居での生活は終わりを告げる。
後年、中学生になって、独りで自転車に乗ってそこを訪れたことがある。
7年くらい経った頃だろうか。
そこは、イメージの世界とは大きく違っていた。
変わり果てた・・・・のか、
それともイメージの世界が強すぎたのか・・・
それは未だに定かではない。
今はもうほとんど面影すらもなく変貌している。
近くにアリーナ土居なんつうのが出来たりして。
結局、それはどちらでも良いのだ。
私の中では、私が腕白なガキんちょで過ごした土居のその辺りは、自然がいっぱいで
おとぎ話のような空間だったのだ。
そして、その空間は私の中でいつまでも色褪せることなく存在し続けるのだから・・・

