korobokuru's philosophy

コロボックルの思考整理

日拝

 太陽を仰いで祈ること。

我々の胃の後ろの方に太陽神経叢があり、そこで自律神経を調整する。

朝の大気が清浄な時間に太陽を仰いで息を吸い込むと五感が沈静化され、雑念妄想が遮断されて正しい霊感や直感の世界に入ることが出来るようになる。

 

【その方法】

 朝の大気が清浄な時間に、まず太陽を仰いで息を吸い込み、「アマテラスオホミカミ」と唱える。

この時、「アマテラス」の「ス」のところで「スーッ」と息を吸い込み、それから「オホミカミ」と続け、最後の「ミ」を言い切ると、息を継がずに「アマテラス」に戻る。

息を吸うのは「ス」の音、一箇所だけである。

 

出典

私の遺言 (新潮文庫)

 

 

 

【 魂が震える!ジョンレノンの名言 】


 
 
(1)
 
幸せになることに
躊躇してはいけない
 
 
(2)
 
君が独りの時、
本当に独りの時に、
誰もできなかったことを
成し遂げろ!
 
 
(3)
 
生きていれば
いいこともあるさ
 
 
(4)
 
諦めない心こそ、本当の才能。
 
 
(5)
 
根本的な才能とは、
自分に何かが出来ると
信じることだ
 
 
(6)
 
心を開いて「Yes」って
言ってごらん。
 
すべてを肯定してみると
答えがみつかるもんだよ
 
 
(7)
 
問題は、
これからのことや
過ぎ去ったことを
思いわずらう必要はない
ってことなんだ。
 
大切なのは、
今この瞬間を
楽しむ、ということさ
 
 
(8)
 
想像してごらん、
すべての人々が
平和に暮らしている姿を
 
 
(9)
 
結局、あなたが受け取る愛は
あなたが与える愛に等しい
 
 
(10)
 
人の言うことは気にするな。
 
「こうすれば、ああ言われるだろう」
 
こんなくだらない感情のために、
どれだけの人がやりたいことも
出来ずに、死んでいくのだろう
 
 
 
-ジョンレノン-
 

『カラマーゾフの兄弟』の翻訳者

 高校時代、すなわち40年余り前に一度挫折したままの『カラマーゾフの兄弟』を読んでおこうと思った。

ただ、この古典は幾人もの訳者がいる。

外国の小説というものは、それを翻訳する人の感性次第で如何様にも変わるものであろうことは想像に難くない。

 

 確か、数年前にロシア文学の翻訳を次々と上梓して、その評価が高かった亀山郁夫という学者が居た筈。

しかし、評価といっても、僕が目にしたそれは確か、出版社の宣伝だったろうから、アテにはならない。

 

そこで、ちょっと確認しておこうと調べてみた。

まずはamazonのレビュー。

絶賛する人もいれば、意訳が稚拙だとこき下ろす人もそれなりにいる。

ほぉ~そうなんだ。

更に調べてみると、こんなページに行き当たった。

連絡船 ── 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』がいかにひどいか

 ここまで辛辣に主張するには、それなりの信念が要る。

更に調べてみると、その論調が彼のみに留まらない。

そこまで言われると、逆に読んでみたくもなるが、ここはやはり、一等評価の高い原卓也訳をまずは読むべきだろう。

 

 酔狂はその後。

だって、僕の時間はそんなにふんだんに残されている訳ではないのだから・・・

 

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 

 

 

テンプレート

 この10年余り続けてきたのがgooブログ

最初、予備知識の無いまま、感覚で始めたのがそれだった。

その後、他のブログも使ってみて、決してそれが一番ではないことに気付く。

兎に角、制限が多い。

テンプレートのデザインや汎用性についても、ここ「はてなブログ」の方が良いように思う。

 

 ただ、メイングログたるgooブログの、積み上げてきたトラフィックを思えば、そう簡単に引っ越す訳にはいかない。

なので、ここは、思いの丈をぶちまける場所として、並行して種類の違うブログを使っていきたいと考えている。

 

 そんなことしないで、それらを統合すれば、もっとトラフィックが増えるのではないか!?

そういう考え方もある。

実際、どちらが正解かは分からない。

 

 でも、暫くはやってみようと思っている。

 

 勿論、メインブログとの連携はしない。

ここでは、飽くまで正体不明の存在で在りたい・・・

 

 

 

 

腹八分目

 一日一食主義が崩れて、最近二食になった。

あの頃、苦もなく一食に出来たのは、当時の心境がそうだったからなのだろう。

そして今は、その心境が変化した。

これじゃあ、折角快適になった腹回りが、また醜く戻るのは時間の問題。

 

 思えば、一食主義の実践で痩せたのは「単純に摂取カロリーが減ったから」ということなのだろう。

ただ、その一食は、結構食ってた。

ならば、その一食分を二回に分ければ、摂取カロリーという点では同じ事。

そんな思いで、今日の昼餉のライスカレーは半分にした。

それでも、空腹感どころか、胃が重かったりする。

今まで通り、気分のままに、一気に食うことは簡単だった。

しかし、そうした後は、より強い胃の膨満感に悔やむことになったろう。

 

 要するに、「腹八分目」。

この歳になってようやく、その本来の意味を理解したような気がする。